Masuk服だけでは平民には見えないと判断してイザベラが手配を求めると、小太郎は深く頷き、落ち着いた声で返す。
「ただいま手の者を」
彼がそう言った瞬間、まるで影から生まれたかのように、斜め後ろに佇んでいたくノ一が一歩前へと進み出た。漆黒の装束がふわりと揺れ、夜の闇をまとったかのような気配を漂わせている。
「この者に、変装の手伝いをさせます」
「お願い」
小太郎が姿を消し、くノ一は床に膝をついて深々と頭を下げた。彼女の仕草は無駄がなく、凛とした緊張感が漂う。
変装の準備が始まると、イザベラはぐるぐると晒を巻かれ、細い腰の上に肉厚な偽装が施されていく。圧迫感に息苦しさを感じながらも、これも生き延びるためだと自分に言い聞かせた。土色の顔料が滑らかな白肌を覆い、そばかすを散らした顔へと作り変えていく。顔の造作はそのままなのに、くすんだ肌色とそばかすの効果で見事に別人のようだ。
さらに、口に含み綿を詰めると、頬がふっくらと膨らみ、輪郭が丸みを帯びたものへと変化した。唇を動かすたびに違和感があるが、顎が痛くてそもそも話したくないので、問題はないだろう。長い髪は帽子の下に押し込められ、もはやあの煌めく栗色の髪も、貴族然とした美貌も、ここにはない。
(これなら、さすがに誰も私だとは思わないでしょうね……)
鏡に映るのは、見知らぬ娘。顔色は悪く、貧相な頬、くすんだ唇。イザベラ・ルードイッヒなど、どこにもいなかった。
くノ一に軽く頷くと、タイミングよく小太郎が姿を現す。
(……もしかして、ずっと見てた?)
「では国境を目指しましょう」
小太郎の声に促されるまま、イザベラが馬車に乗り込もうとすると、彼はすっと扉を開け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「早く馬車に乗れ」
その横柄な口調に、イザベラは苦笑する。
(ほんと、小太郎って偉そうよね……)
馬車が動き出すと、舗装された煉瓦の道を滑るように進んでいく。しかし、次第に家々は消え、道はただの轍へと変わった。大地の鼓動を感じるほどに馬車は激しく揺れ、窓の外には果てしなく広がる大草原が広がる。
朝冷えの空気が肌を刺すように冷たく、けれども澄み切った青空が広がっていた。陽の光は黄金色の光輪を描きながら大地を照らし、どこまでも続く緑の波を穏やかに揺らしている。
ベルシオン王国――グランクラネル王国の東に位置する小国。小国ゆえに戦火が絶えず、他国からの侵略に晒されながらも、巧みに外交と戦争を繰り返して生き延びてきた国だ。
(グランクラネル王国との停戦協定はあと一年……表向きは平和でも、裏ではどんな謀略が巡らされているか分からないわね)
忍びたちはそうした影の動きに敏感だった。小太郎や彼の仲間たちは、この戦乱の世を生き抜くための生粋の情報屋なのだろう。
やがて馬車は国境へと辿り着く。
身分証を求められたが、小太郎が見せた偽造証を確認した兵士は何事もなく通行を許可した。
(……何を見せたのかしら?)
聞きたい気もするが、余計な詮索はしない。
ベルシオン王国に入国すると、道が滑らかになり、馬車の揺れが次第に小さくなっていく。舗装が整い、建物が見え始める――王都ベルシニアはもうすぐそこだ。
王城の背後には山々がそびえ、城下町はその南に広がっていた。山から流れる二本の川が街を守るように走り、王城に近い地区には官吏や軍人の住居が立ち並び、さらに外側には商業区や職人街が続いていた。
夕暮れ時、馬車は職人街の東の外れ、木々に囲まれた一軒家の前で止まる。ここも小太郎達のアジトの一つだ。『根の者』ーー各国に忍び込んで拠点を築き根を張っているスパイーーは方々の国に紛れ住んでいるのだ。
玄関前のロータリーに停まった馬車の扉が開く。冷たい夜風が吹き込み、ふわりとイザベラの頬を撫でた。外に降り立つと、館の影が闇に溶け込むように沈み込み、月明かりにぼんやりと浮かんで見える。
入り口には、メイドの姿をしたくノ一が恭しく待ち構えていた。
「いらっしゃいませ、イザベラ様。ここまで来れば、人目につくことはございません。王国の追っ手も届きませんので、どうぞ変装をお取りくださいませ」
くノ一の声音は穏やかだったが、その奥に張り詰めた緊張が滲んでいた。まるで、主君を守るという使命を帯びた刀のように、無駄な感情を削ぎ落とした声音だった。
柔らかく微笑みながら、彼女はそっと扉を開く。その仕草は優雅だったが、目の奥には鋭い光が宿っている。戦場の兵が武器を持つように、この者は “礼儀” を纏っているのだ。
イザベラは小さく頷き、馬車から降り立つ。森の空気はひんやりとしており、昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれていた。夜露を含んだ草の香りがかすかに漂い、湿った風がそっと頬を撫でる。
(ここが、私の新たな拠点……)
目の前に立つ館は、公爵邸に比べれば遥かに小さいが、それでも瀟洒な佇まいを持っていた。貴族の邸宅に相応しい、優雅な装飾が施された建物だ。
館に足を踏み入れると、外の冷気とは裏腹に、暖炉の火がゆらめく暖かな空間が迎えてくれた。廊下を進むと、イザベラの寝室へ案内される。貴族の館としては小ぢんまりとしているが、調度品は一級品ばかりだ。天蓋付きのベッドには繊細な刺繍が施され、上品なクローゼットは邪魔にならず、美しく磨かれた鏡台の銀の枠は優美な曲線を描いている。別室には彫刻が施された応接セットが置かれ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。まるで、公爵令嬢としての矜持を守るかのように、館全体が洗練された静謐な空気に満ちている。
それでも、心のどこかがざわついた。まるで、“亡命者” である自分にふさわしい場所がここであると突きつけられるようで――。
「浴室もご用意しております。旅の疲れを癒してくださいませ」
(お風呂……! ああ、助かった……!)
心の底からの安堵と歓喜が胸を満たし、思わず小さく息を弾ませる。転生してからというもの、この異世界の不便さには何度もため息をついたが、ことお風呂に関しては格別だった。
この世界では、風呂は贅沢品だ。平民なら桶に張った水で体を拭くだけ、王侯貴族ですら毎日湯浴みする者は少ない。しかし、イザベラ――いや、元・石黒麗子にとって、風呂に入ることは生きる上での必須条件だった。
(やっぱりお風呂は最高よね! 一日の終わりに温かいお湯に浸かる幸せ、これがなきゃやってられないわ)
お風呂という一言で気分が上がり、案内されるまま浴室へ向かう。
お風呂――それだけが今、私を生き返らせてくれる。
湯気が立ちこめる浴室に足を踏み入れると、心の底から安堵がこみ上げてきた。大理石でできた湯船には湯がなみなみと張られ、湯気が空気をふんわりと満たしている。
これは贅沢なんかじゃない。生きるために、必要なものなのよ。
前世では、毎日湯船に浸かるのが当たり前だった。でもこの世界では、それが叶わない人間がほとんどだ。公爵令嬢の立場だからこそ許される享楽。けれど――今の私は、公爵令嬢なのか? ただの亡命者なのか?
頭を振って考えを振り払う。
浴室へと案内されると、くノ一が手際よく湯を用意し、イザベラの変装を解いていく。
顔に塗られた土色の顔料が拭い取られ、くすんでいた肌が本来の白磁のような輝きを取り戻していく。帽子の下に押し込められていた栗色の髪をほどけば、絹糸のようなウェーブがふわりと広がった。
晒を解かれると、身体を締めつけていた圧迫感がふっと消えた。長時間の拘束から解放され、イザベラは思わず肩を回す。
くノ一の手で変装メイクを落とされた時、押し込んでいた綿のせいで腫れた頬がズキリと痛んだ。
「っ……」
思わず小さく息を飲む。お願いだから腫れたままにならないでよ……。
身体を洗われながら、晒を巻き付けられていた苦しさを思い出し、軽く身震いした。汗疹になっていないかとそっと肌を撫でる。大丈夫。ひどい痕は残っていない。
もう二度とこんな思いはごめんだわ。
夜明け前の冷たい空気が、広大な草原に張り詰めるような緊張感をもたらしていた。蒼白い月が空に浮かび、雲間から薄明が差し始める頃、ベルシオン軍は静かに行軍を続けていた。その進軍は静かでありながら、確かな威圧感を放っていた。 甲冑の擦れる音、馬蹄が土を踏みしめる重厚な響き、そして無言のまま進む兵たちの影。それら全てが、練度の高さを物語っている。戦場に立つ者であれば、誰もがこの軍勢の規律と力を一目で悟るだろう。 軍の先頭を進むのは漆黒の馬にまたがるルーク・ベルシオン。その姿はまるで闇を纏う戦神のようだった。彼の黒鎧が薄明の光を鈍く反射し、背後には彼に忠誠を誓う精鋭たちが従う。その中でも、彼の右手に控えるケインズと、左手に並ぶガリオンは特に目を引いた。 ケインズは冷ややかに馬を進めながら、遠くに広がるスピネル軍の陣を一瞥した。彼の表情に迷いや不安はない。むしろ、すべてを見通しているかのような余裕があった。 「リチャードは手をこまねいている。いや、どう動くべきかも判断できていないというべきか」 彼の言葉には、嘲るような響きが混じっていた。 「奴はこれまで一度も"選択"をしたことがない。ただ、周囲の言葉に流され、その場しのぎの決断を繰り返してきただけだ。今も同じだ。突然戦場に現れた我らにどう対処すべきか、考えがまとまらぬまま狼狽している」 ルークは静かに頷いた。 「ならば、我らの手で選択肢を削ぎ落としてやればいい」 一方、ガリオンは豪快に笑いながら馬を進めた。 「まったく面白みのない王だな。敵に回すなら、もう少し骨のある奴のほうがやりがいがあるってものだ」 「奴が面白いかどうかは問題ではない。どうせじきに消える者だ」 ケインズが淡々と告げると、ガリオンは肩をすくめた。 「そうだな。だったら、早めに片をつけようぜ。俺は手応えのある戦がしたいんだ」 「手応えなら、これからたっぷり味わえるだろうよ」 ルークは不敵に笑いながら、スピネル軍の陣へと目を向けた。 スピネル王国軍の陣営が見える距離まで進軍すると
一方、スピネル王国内部では、戦の混乱が頂点に達していた。リチャード王の軍はエクロナス城を包囲し、兵糧攻めに出ていた。しかし、その包囲には思わぬ綻びがあった。 城の一角、闇に紛れるようにして兵が動いている。リチャード王の兵が見張る中、誰にも気づかれぬよう密かに城壁の外へと物資を運び込む影があった。「よし、運び込め……急げ。」 命じたのはオーガスト・ドレット伯爵。彼の瞳は夜の闇よりも冷たく光り、慎重に周囲を見渡している。密かにジェームズ側へ通じる補給路を開き、エクロナス城内へ食料や武器を流していたのだ。 城内では、ジェームズ公爵が険しい表情で地図を睨み、焦りを隠そうともせずに呟いた。「リチャードの包囲は厳しいが、まだ終わってはいない。我々には、最後の一手がある……」 蝋燭の灯りが地図の上を揺らし、戦局を映し出す。補給が続く限り、彼らには戦う余地がある。しかし、それも長くは続かない。リチャード軍がさらに包囲を強化すれば、いずれ飢えと病が城を蝕むことになる。 その時だった。 広間の扉が勢いよく開き、伝令が駆け込んできた。彼の顔には緊張が滲み、息を切らせながら叫んだ。「ジェームズ様!ベルシオン軍がスピネル領へ進軍を開始しました!」 広間の空気が凍りつく。ジェームズ公爵は一瞬言葉を失ったが、すぐに目を鋭く光らせた。「……ベルシオンが動いたか」 その言葉には、焦りと期待が入り混じっていた。 リチャード王の困惑 エクロナス城を包囲するリチャード軍の本陣にも、同じ報せが届いた。「ベルシオン軍が進軍中?」 リチャード王は豪奢な椅子に深く腰掛け、手にしていた酒盃を傾けかけたまま、訝しげに兵士を見つめた。「ま、待て……奴らは何のつもりだ?この戦は私とジェームズの争いだぞ?」 室内の空気がざわつく。彼の周囲には重臣たちが集まり、困惑の表情を浮かべていた。その中で、ただ一人冷静だったのは、ネルソン・スカバル公爵だった。「ベルシオンはこの戦の勝者を見極めるつもりでしょう。あるいは、
夜明けとともに、ベルシオン軍は威風堂々と進軍を開始した。漆黒の軍旗が朝焼けに揺れ、整然と並ぶ兵士たちの甲冑が朝陽を反射し輝く。ルーク・ベルシオンは馬上で静かに進軍を見つめ、冷徹な視線の奥に揺るぎない自信を宿していた。彼の側にはガリオン将軍が不敵な笑みを浮かべ、ケインズ参謀は冷静に作戦を再確認していた。 途中、ルークは別動隊を編成し、馬上から力強く貴族たちの名を呼んだ。「マルク公爵、アレン子爵、バートランド子爵、カッパー侯爵、ユーロ公爵——貴公らに別動隊を任せる!」 貴族たちはそれぞれ馬を進め、ルークの前に整列した。「南部の城はほぼ無防備だ。速やかに制圧し、補給線を確保せよ。」「存分にやらせてもらおう。」マルク公爵が静かに頷き、部隊の方を振り返る。 ルークはマルク公爵の肩を叩き、静かに言った。「貴公には別動隊の士気を託す。確実に戦果を挙げてくれ。」「王の期待に応えるのが我々の務めです。」マルク公爵は敬意を込めて一礼し、すぐさま馬を駆って部隊の先頭へと向かった。 ベルシオン軍の進軍は本格化した。王直属の本隊が主力として北へ向かう一方、南部制圧を担う別動隊が迅速に行動を開始する。先陣を切るのはケルシャ城主マルク公爵、そしてアレン子爵、バートランド子爵、カッパー侯爵、ユーロ公爵という歴戦の将たちである。 マルク公爵は馬上で地図を広げ、冷静な目で戦略を練る。彼の指が示したのは、スピネル王国南部に点在する小城や要塞だ。「リチャード王が軍を率いている今、南部の防備は手薄。迅速に各地を制圧し、補給線を確保する。アレン、バートランド、お前たちは騎兵を率い、東方の城を抑えよ。カッパー、ユーロ、お前たちは西方から圧力をかけつつ、可能なら無血開城を狙え。」 アレン子爵は口元をほころばせ、「ようやく腕が鳴るな」と呟いた。彼は機動戦を得意とする将であり、彼の率いる騎兵部隊はその速さと突撃力において右に出る者はいない。「バートランド、俺の後ろに続け。いつものように、俺が道を切り開く。」「お手並み拝見といこうか。」バートランド子爵が静かに笑いながら剣の柄を握る。彼は慎重かつ
夜明け前の薄闇の中、ベルシオン王国の軍営地に重厚な軍靴の音が響いていた。鎧の擦れる音、馬のいななき、戦旗が風を切る音が、冷えた空気を震わせる。長い列を成す兵士たちは静かに武器を構え、これから始まる戦いへの覚悟を噛み締めていた。 イザベラは城の城壁の上から、その光景を見下ろしていた。風が長い栗色の髪を優雅に揺らし、彼女の碧眼は遠くの地平を見据えている。大地を踏みしめるベルシオン軍の姿は、まるで地を這う黒鉄の奔流のようだった。 軍の先頭には、漆黒の軍装に身を包んだルーク・ベルシオン王がいた。濡羽色の髪が風に舞い、その瞳には確固たる決意の炎が宿っている。彼は堂々と馬上に立ち、静かに前を見据えていた。隣には、銀髪赤眼の猛将ガリオンが戦馬『黒龍王』に跨り、鋭い視線を前線へと向けていた。ハルバードを携えたその姿は、戦場に舞い降りる銀狼そのものだった。 その後方には、知略の要であるケインズが控えている。金髪碧眼の知将は冷静な表情を崩さず、時折メガネを押し上げながら戦況を見極めるように軍列を見渡していた。その傍らには、マルク公爵やケント公爵、そして若きベルク侯爵らが騎乗し、それぞれの軍を率いていた。「……とうとう行くのね」 イザベラは小さく呟いた。彼女の言葉は誰にも届かないが、その声音には確かな感情が宿っていた。戦場に向かうルークを見送ることは、これが初めてではないはずなのに、策略をめぐらし確実に勝てる状況を作ったはずなのに、万に一つも不安はないはずなのに、今日に限って胸の奥がざわめく。 まさか、私、ルークを心配しているの? それとも……。 ルークがふと振り返った。城壁の上のイザベラを見つけると、彼は微かに口角を上げ、まるで「必ず勝利して戻る」と告げるように視線を送った。 それに応えるように、イザベラはそっと頷いた。王として進む者と、それを見送る者――その立場の違いが、二人の間に張り詰めた緊張を生んでいた。「総員、進軍!」 ルークの号令が響き渡った。その瞬間、大軍が一斉に動き出す。無数の馬蹄が地を叩き、武器の鈍い輝きが朝日の中できらめく。黒鉄の奔流は、スピネル王国へ向かい、嵐のごとく駆け出した。
冬の冷気がベルシオン城の石壁を撫でる夜更け。月明かりが静かに広間を照らし、薄暗い影が壁に踊る中、イザベラは執務机の前に座り、燃えさかる蝋燭の灯りのもと、書類をめくっていた。彼女の指先は優雅に羊皮紙の上を滑り、戦略の記録が次々と綴られていく。集中した表情の中に、彼女の決意が表れていた。 そんな静寂を破ったのは、扉を叩く軽やかな音だった。「イザベラ、お届け物です」と小太郎の声が響く。イザベラは筆を止め、顔を上げる。彼女の目には期待と緊張が交錯していた。「小太郎か……入って」と彼女は声をかける。 扉が静かに開かれ、闇に溶け込むような黒装束の忍び――小太郎が音もなく現れる。彼は慎重に周囲を確認しつつ、イザベラの前に巻物を差し出した。その手は少し震えているが、彼の表情には決意が宿っていた。「スピネル王国より急報。リチャード王とジェームズ公がついに戦を始めた」と告げる。 イザベラの瞳が鋭く光る。彼女は素早く巻物を受け取り、開いた。そこに書かれていたのは、スピネル王国内での全面戦争の勃発。彼女の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。それはまるで、これから訪れる戦乱を見据えた女帝のような笑みだった。「……ついに始まったのね」と彼女は呟く。「ルーク様に報せねばなりませんね」と小太郎が静かに言うと、イザベラは頷き、椅子から立ち上がる。「ええ。これはベルシオンにとって、絶好の機会だもの」と彼女は力強く言った。その言葉には、戦の興奮と期待が込められていた。 翌朝、王宮の広間にはベルシオン王国の要人たちが集められていた。ルーク・ベルシオン王は玉座に深く腰掛け、前方に控えるイザベラの報告に耳を傾けていた。彼の姿は威厳に満ち、紫紺の瞳は冷静さを保ちながらも、内心では戦局への不安が渦巻いている。「スピネル王国は現在、内乱状態です。リチャード王とジェームズ公爵の戦いが始まりました。すでに大規模な戦闘が各地で発生しています」とイザベラが報告する。彼女の声は落ち着いているが、その背後には緊張感が漂っていた。 広間に重苦しい沈黙が落ちる。ルークは顎に手を添え、鋭い紫紺の瞳で戦況を思考するように宙を見つめた。彼の心には、戦の流れを読み取ろうとする意志が宿っている。「……内戦
リチャード軍はエクロナス城を包囲し、徹底した兵糧攻めに出た。 冷たい風が吹き抜ける中、周囲の村々から食糧を徴発し、城内に一切の補給が届かぬよう、周到に包囲陣を構築する。 リチャードの命を受けたネルソン・スカバル公爵は、冷徹な表情で布陣を整え、抜け道を徹底的に封じていった。 彼の目は鋭く、まるで獲物を狙う猛禽のように、周囲を見渡している。 城内では、日に日に食糧の備蓄が減り、兵たちの顔に疲労の色が濃くなっていく。 彼らの目は虚ろで、頬はこけ、まるで生気を失った亡霊のようだった。 はじめは耐え忍んでいた将兵たちも、胃の中が空っぽになっていくにつれ、焦燥感を隠せなくなっていった。 彼らの間には、食糧不足への不安が広がり、互いに視線を交わすたびに、心の中に潜む恐怖が増幅していく。 だが、この完璧に見える包囲網には、ひとつの「ほころび」が存在していた――オーガスト・ドレット伯爵の持ち場である。 彼の部隊はリチャード軍の中でもジェームズ寄りの立場を隠し続けている。 表向きは包囲網を厳重に保っていたが、夜の闇に紛れ、小規模な物資を城内へと密かに送り込んでいた。「わずかな量だが、確実に届けることが肝心だ」 とオーガストは心の中で呟き、 信頼できる部下たちを通じて密輸ルートを維持し、ジェームズ側と密かに連携を取っていた。 彼の目は冷静さを保ちながらも、内心では緊張が高まっていた。 夜の静寂の中、彼は自らの行動が露見することを恐れ、心臓が高鳴るのを感じていた。 しかし、リチャード側の監視も次第に厳しくなり、ネルソン・スカバル公爵の密偵が彼の部隊の動きに疑いを抱き始めていた。「オーガスト伯、貴殿の持ち場だけが妙に静かだが……?」 ある夜、スカバル公爵の使者がそう問いかけた。 彼の声には疑念が滲み、まるで暗雲が立ち込めるような重苦しさがあった。 オーガストは顔色ひとつ変えずに答える。 彼の声は冷静で、まるで氷のように硬い。「我が兵は規律を重んじるゆえ、無駄な動きは
夜の帳が静かに降りる頃、冷たい風が窓辺をかすめた。城の中庭は深い闇に沈み、遠くで梟が低く鳴き、それもすぐに静寂へと溶けていく。揺らめく蝋燭の炎が壁に影を落とし、部屋の中はぼんやりとした橙色に染まっていた。イザベラは深く椅子にもたれ、指先でグラスの縁をなぞりながら静かに思索に耽っていた。ワインが僅かに揺れ、今にも溢れそうになる。その瞬間、扉がそっと叩かれた。「お嬢様。ベルシオン軍が、カーネシアン王国を無事征服いたしました」 低く、けれどどこか柔らかい声が響く。黒髪をきちんと撫でつけた執事、セバスの姿をした男――だが、その瞳に宿る鋭さは紛れもなく
その夜、カッパー侯爵のもとに密書が届けられた。 静まり返った陣営の中、揺らめく燭台の光の下、机の上に一通の封書が置かれていた。誰が運んだのか、どのようにして届いたのか、誰一人として気づいていなかった。ただ、そこには確かにベルシオン軍の印が刻まれていた。 震える指先で封を切ると、そこには短く冷酷な言葉が並んでいた。『汝の妻子は我が軍が保護している。彼らの命運は汝の選択に委ねられている。投降し、オリバー王を討ち取れ。さすれば、全てを返還する』 カッパー侯爵は密書を握りしめ、ふっと息を吐いた。目を閉じ、一瞬の沈黙の
ケルシャ城でマルク軍と合流したルークたちは、一路カーネシアン領へと侵攻し、コンラット城を目指していた。この三年間、毎年のようにこの城を拠点としてベルシオン領内への侵攻が行われてきた。しかし、先の戦いでコンラット城を治めるユーロ公爵は大きな損害を被り、現在、城を守る兵はわずか五百。疲弊しきった城に、ベルシオン軍の影が迫る。「くそっ……ベルシオンの奴らめ……!」 ユーロ公爵は拳を握りしめ、深く息を吐いた。砦の上から見下ろせば、遠くの地平線に黒々と連なるベルシオン軍の陣。槍が林立し、漆黒の甲冑が鈍い光を弾いている。その威容に、兵たちは次第に言葉を
冷たい夜風が頬を切るように吹き抜ける王城の外回廊、月明かりが二人を青白く照らし、静寂の中に微かな足音が響いた。あやめは足を止め、目を細める。背後に漂う、かすかな殺気――鳥肌が立つほどの冷ややかな感覚が背筋を這い上がった。「……イザベラ様、つけられています」 イザベラはあやめの言葉に心臓が一拍、強く脈打つ。呼吸を整え、何気ない仕草を装いながら、周囲の影をちらりと確認する。誰もいない。 一瞬の静寂。次の瞬間―― ギィィッ! 鈍い音を立て、背後の扉が軋んだ。あやめは反射的に身を翻し、腰の短剣を抜く。刹







